郝 景芳『流浪蒼穹』読書ノート

 このコーナー「山籠り人文学者のノート」はトピカの中の人が晴耕雨読の中で思ったことを徒然もなく書いていくブログです。問題提起と結論がひとまとめになったような文章でないこともありますが、塩江から日本、日本から世界、そして人間が接するありとあらゆる事象と事物に思いを馳せる端緒になるような文章を心がけています。よかったらしばしお立ち寄りください。



 郝 景芳は1984年中華人民共和国天津生まれの作家。最近の中国SFブームで、日本でも「折りたたみ北京」に代表される彼女の作品が多数翻訳で読めるようになり、SFだけでなく文学界隈で脚光を浴び始めている作家である。

 『流浪蒼穹』は2009年から11年にかけて、中国で出版されたSFで、23世紀を舞台に、地球と火星を行き来する青年の葛藤が描かれている。

 その中で、火星生まれで13歳から18歳まで地球で過ごし、火星に帰還した主人公のひとりが吐露する苦悩にハッとさせられることがあったのでコメントしたいと思う。

 物語の中の地球は、今の私たちの自由主義と資本主義社会にブレーキをかけないまま、突っ走っていったような社会だ。一方で、そもそも人が住むに適していない厳しい環境である火星に誕生した人類の文明は、高度な管理社会と寡頭政治が両立した社会のように見える。地球に旅した火星の少女は地球人が自分たち火星の社会を「成人すると強制労働に服し、独裁者を抱く社会」のように考えていることにショックを受け、メンターのような存在の医師にどうしてこのような誤解が生まれてしまうのかを聞く。

 メンターの答えを引用する。

 「それは往々にして、こういうことだろうね。ある文明の中で暮らしている人が周囲の物事を見るのは、それぞれが個別のこととして見るけれど、別の文明から視線を投げかければ、政権の側からすべてを見て、そうした角度でその文明のあらゆる事象を説明しようとするからだ」 (p.282)

 この言及は私たちが「国際化」と呼ばれる社会に生きる上で心に刻印すべきものではないだろうか。とりわけ、中国の女性の作家による作品で語られていることを考えると、私は冷静でいられなかった。自分たちとは別の文明ないし社会が、自分たちの合理性から見ると理不尽に思えるシステムを持っていると、私たちはそれを批判したくなる。一見すると寡頭政治や独裁政治と言われる、民主主義側からすれば「乗り越えられるべき政治制度」だとしても、それが直ちに不合理なのかどうかは、私たちの尺度では判断できない。なぜならば、民主主義にもまた不合理が多く内在しており、私たちもまた解決策の見えない理不尽のガラスケースの中で生きているからだ。

 では、私たちは異なる文明が持つ理不尽に沈黙すべきなのだろうか。私はここにいわゆる「専門家」の役割があると思う。ある文明の外側からやってきて、その文明に関して内と外のバランスをとりながら合理的な言明をすることは可能だが、そのためにはその文明の歴史と、そこに生きる人々との深い交流が必要になる。専門家と呼ばれる人たちは、専門的な学習と留学などによる現地経験、現地の人との関係性を持っていて、その文明と自分たちの文明を公正な秤に乗せて比較しようと研究を重ねている。同時に、その結果の自身の言葉が常に更新されうるし、されなければならないというアカデミアのコミュニティに籍を置いている。そう言った人たちならば、悪平等的な文化相対主義でも、独善的な説明でもないオルタナティヴな言葉を発することができるだろう。エドワード・サイードはこのような専門家を指して「境界的知識人」と呼んだ(んだと思う)。

 ここまで考えてきて思う。このメンターの箴言は文明と文明、国と国の関係性だけにのみ置き換えられる言葉だろうか。私は違うと思う。あるコミュニティの内側に住む人たちとその考え方を、コミュニティの外の人たちが観察し、言及するときもまた「ひとつの角度であらゆる事象を説明する」態度となってしまうことは多々ある。そういったとき、例えその場にそのコミュニティの「専門家」が存在しなかったとしても、別の領域の専門家の眼差しや態度、言葉の使い方から公正さの一端を学ぶことはできるし、自分がそのコミュニティの専門家たらんと努力することもできる。

 ある文明からある文明へと流浪することそれ自体が苦悩であることは、この『流浪蒼穹』に限らず多くの文学によって描かれている。しかし同時に、その苦悩が創造力の源であり、結論に至らない過程としての生命を生きる原動力になることもまた、豊かに描かれていると思う。

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 このノートは『流浪蒼穹』の中のごく僅かなテーマに触発されて書いたもので、もっと豊かな物語、そして多様な思弁に導く糸口に溢れている作品であることはここにお断りしておきます。ぜひ読んでみてください。

書誌情報: 郝 景芳, 及川 茜/大久保 洋子訳,『流浪蒼穹』, 早川書房, 2022.

 

             

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