ガソリンカー復元実行委員会

ガソリンカー復元実行委員会は、2018年に当時の塩江町地域おこし協力隊、塩江美術館学芸員が、香川高等専門学校と香川大学創造工学部造形メディアデザインコースの協力のもと始めたプロジェクトです。目的として、塩江温泉鉄道を歴史的、文化的遺産と捉え資料の調査を行うこと。それをもとに塩江町の1930―40年代の歴史をより深く知ること。そしてそれらの成果をこれからの塩江のコミュニティ作りに利用することを掲げています。

これまでの成果として、2018年9月のガソリンカー図面原本36枚の発見を契機に、3Dプリンタ模型の作成、5インチゲージ模型の作成、遺構散策マップ発行、実寸大模型の製作に着手などがあげられます。

ガソリンカー復元実行委員会は2019年に高松市塩江美術館で成果発表として企画展「塩江温泉鉄道 ―風景と記憶―」を開催し、塩江美術館としては記録的な2364名(開催期間1ヶ月)の来場者を達成しました。

美術展後も委員会は継続して活動しており、現在は実寸大模型およびNゲージジオラマの作成を中心に活動しています。

活動に参加なさりたい方、見学なさりたい方は一般社団法人トピカまでお問い合わせください。

塩江温泉鉄道(ガソリンカー)とは。

塩江温泉鉄道は1928(昭和4)年8月21日、阿讃県境と塩江温泉の開発、そして旅客誘致のために大西虎之助の主導で設立され、翌年1929(昭和5)年4月21日に仏生山〜塩江間16.1kmを結ぶ鉄道として開業しました。これに並行して演芸場付きの温泉旅館「花屋」が開業され、浴室や売店だけでなく理髪店、遊技場などを併設し、塩江に人を呼び込む大きな転機となりました。現在の道の駅と行基の湯のエリアが、花屋旅館を中心とする塩江町の繁華街でした。なかでも人気を集めたのは「四国の宝塚」と称された温泉旅館専属の少女歌劇団です。演劇の内容を1ヶ月ごとに変えるなど楽しんでもらうための工夫が施され、塩江温泉を彩りました。それだけでなく、春は奥の千本桜の花見、夏は岩崎の蛍狩り、鵜飼、鮎釣りや納涼祭、秋は菊人形、キノコ狩り、冬は新年宴会、大滝山のスキーと、四季折々の催し物の足として塩江温泉鉄道は利用されました。催し物が開かれると定員40人のガソリンカーに100人もの人が乗車することがあったと伝えられています。このようにガソリンカーは高松の奥座敷を訪れる観光鉄道として利用されていた一方で、塩江から仏生山に向かう学生など、地元の人たちの足としても一定の需要がありました。

当時、旅客列車としては珍しいガソリン駆動エンジンを用いていたため、沿線住民に「ガソリン」や「ガソリンカー」として呼ばれ、現在もその呼称が用いられています。

開業当初の賑わいは相当なもので、観光鉄道としても人気があったガソリンカーですが、9年後には経済不況と重なり経営が苦しくなってしまいました。1938(昭和13年)7月には琴平電気鉄道株式会社に吸収され、琴平電鉄塩江線となりましたが、吸収されたあとも戦争の影響によるガソリンの統制厳格化を受けるなど営業好転の目処が立たず、開業からわずか12年後の1941(昭和16)年5月10日に廃線となりました。廃線後、レール等は台湾製糖株式会社に売却され、車両は満州に渡り、新京(現在の長春)市電となったと伝えられています。琴平電鉄塩江線は全線廃止となりましたが、現在も関、中村、岩部に橋台が、中村、御殿場、岩部にはトンネルが当時のまま残っています。また、現在もガソリンカーが走った仏生山から高松市香川町浅野にかけての約4kmの生活道路は「ガソリン道」という通称で利用されています。

車両の特徴

塩江温泉鉄道の軌間(レール幅)は非電化の列車としては珍しい標準軌(1435mm)を採用していて、これは琴平電鉄からの貨車直通を念頭においてのことでしたが、結局直通運転は実現しませんでした。(当時、国鉄も私鉄もほとんど狭軌(1067mm)を採用していました。)機関は米国ブダ社製の38馬力水冷六気筒のガソリンエンジンを搭載、台車には半鋼製片ボギー式と珍しい構造を採用していました。自重は6.5トン、長さ8メートル、幅2.5メートル、定員40人、比較的小型で、車体の色は「ハイカラなグリーン」であったと言われています。ドア側から前方へ向かって強く絞られていた正面一枚窓が特徴的な形で、その見た目から「マッチ箱」という愛称もありました。またエンジンを搭載した鉄道(当時日本有数の非電化路線)であることや、ガソリンエンジン駆動の車両としては前進、後進ができる初めての車両であったことなど様々な特徴を持ち合わせています。新造された5両のガソリンカーは全て川崎車両製(現在の川崎重工業株式会社車両カンパニー)で、これは川崎車両が手がけた初めてのガソリンカーとして、5台すべてが廃線まで使用されました。様々な珍しい特徴を持つことや活躍した期間の短さから「幻の鉄道」とよばれていて、現在でもファンが多くいます。

運賃

鉄道運賃は、区間制度にして1区5銭。仏生山〜塩江間を10区に分けられていましたが、2区以上は1区4銭の割合で、仏生山〜塩江までは40銭でした。(当時は米1俵が11円80銭。うどん1杯・油揚げ5枚が5銭だと伝えられています。)

駅数は仏生山・船岡・浅野・伽羅土・川東・岩崎・鮎滝・関・安原・中村・岩部・塩江の12駅です。人が常駐しているのは仏生山、浅野、川東、鮎滝、中村、塩江の6駅で、それ以外は単なる停留所でした。

時間

開業直後の1930年の時刻表は、仏生山初午前5:14〜午後9:54、塩江発午前6:04〜午後10:44で1日21往復、50分ごとに運転されていました。1両での運転がほとんどで運転していたのは10代の少年たちが多かったと言われています。

25分ごとに運転されていた時代もありましたが、あまりサービスの効果もなく、琴平電鉄と合併後、再び50分ごとの運転に変更されました。全線所要時間は42分とされています。