【理不尽と悲しみのアウトソースから生まれる分断を繕うこと】

 最近、あまりにも多いケースで、思うところが多すぎるので久々に中の人ブログを更新。

 近年、ありがたいことに教育や文化行政、学校関係の方々から講演やワークショップの依頼をいただくことが多くなってきた。しかも、代表理事の村山を直接知っている方だけではなく、口コミで私の話を聞いて相談をくれる知らない方も多くいらっしゃる。講演の依頼も一般社団法人トピカや村山のやってきたことを眺めた上で、ご自身や組織のされている活動に接続させてより良い社会を作りたいという熱意を感じるもので、とても嬉しい。

 しかしながら、その多くの依頼を私は断っている。理由は、「無報酬」であることだ。

 教育の現場からの依頼への対応や、社会教育に関わる事業を行っている者として、いま日本社会が教育や文化に関する予算を「選択と集中」の名の下に急速に縮小していっていることは強く感じている。行政予算はもちろんだが、一般の人たちが自身や家族の教育にかけるお金もわかりやすいリスキリングや成果が短期間で見える物に重点的に配分されていて、村山が活動する領域である人文学のような非常に長い目線で社会と関わるものには(特に地方では)お金をあまり払わない。

 村山の講演依頼が無償であることの理由の多くも、この社会状況に依拠しているように思う。「あなたを軽視しているということではなく、本当に少ない予算の中で研究会やシンポジウムを開催する中での苦渋の選択なんです。」という主旨の発言もよく聞く。これまではその熱意と私を選んでくれたことへの感謝もあって、そのような依頼を受け続けてきた。しかし、最近、ある方からのお叱りを受け、私も沈思黙考することで考えを変えた。

 とある方からの指摘は主に以下の2点である。

 1つ目は、平日に教育関係の講演を受ける多くの場合、参加者は公務や業務で来ていることが多く、準備ないし当日に給与が発生している状態にも関わらず、講師が無報酬であることの不公平さだ。給与が一切発生していない場合であっても、講師が提供する知識や知恵は受け手にとっては業務に関わること、平たく言えば「飯の種」であって、それを無償で手にいれることはおかしい。もし本当にその人の話が聞きたくて、予算がないのであれば、参加者から少しずつカンパしてでも支払うべきだという指摘だった。特に小中学校のような義務の初等教育、地域学習などでは教員側が有償なのに、講師側が無償であり、そのことに疑問を持たない方も(依頼側にも、受けて側にも)多い。これは歪な構造だというご指摘はそのとおりだと思う。

 2つ目は、知識に対する軽視だ。苦しい中で講演を依頼してくださる方々が知識やそれを持つ講師を軽視しているという意味ではなく、構造的に、システムとして押し付けられる軽視のことだ。講師が講演でお話しする方法論を含む知識や知恵は、その人が大学や大学院で専門的に学び、その後、自身の活動の中でそれらを変容させることで練り上げてきた成果物である。村山の場合は、9年間の大学、大学院の努力と3年間の地域おこし協力隊、6年間の塩江町民及び(一社)トピカの役員としての活動から練り上げてきたものだ。大学、大学院の9年間でかかったお金は1000万円近いものであり、私は60歳を越える頃まで「奨学金」という名前の借金で返済をする義務を追っている。またトピカとしての5年間は、公益性の高い業務を行政の委託なしで実施している関係で、年収20ー40万円程度という非常に低い賃金で活動している。これだけの時間とお金をかけて積み上げてきたものを、想いだけで無償で提供することは、回り回って村山が最も大切にしている知を軽視することにならないかというご指摘だった。

 このご指摘を受けて、私も色々考えてみた。そこで思ったことが、タイトルにした「理不尽と悲しみのアウトソースから生まれる分断」をどうやって繕って行けたら良いかということだ。

 苦しい中で想いをもって企画をし、そんな中で恥を忍んで無償の依頼を講師に投げている方々は、国や県、末端自治体や所属する会社からの理不尽と社会の関心低下に向き合い、悲しみを抱えながら仕事をしている。そしてさらに立場の弱い外部(この場合は村山)にその理不尽をアウトソースしてしまっている。結果として、最後にそれを受けなければならない末端の人々は深く悲しむし、その悲しみは容易に怒りや依頼者への敵愾心に転じていく。「こいつらは自分が教育で飯を食っておきながら、地域で活動する人間はタダでこきつかってやがる」という言葉を発する人に私は多数会ってきたし、正直に言うと私が同じ言葉を発したことも一度や二度ではない。(この言葉を発することのできる人はまだ良い状況だと思う。さらに多くの人は疑問と辛さを感じながら、耐え忍んでいるのではないかと私は予想している。)

 私はこの状況にとてもしんどさを感じる。本当は同じ想いを共有していて、同じ理不尽に向き合っている人たちがいがみ合ってしまうことで、協働して取り組む場も、その結果生まれるであろう肯定的な影響も逃してしまって、むしろ非常にネガティブな場が生まれてしまう焼け野原が人文学の実践の現場には広がっているからだ。こんな、理不尽と悲しみを押し付けあうことで仲間を失ってしまう連鎖はもうやめたいと思っている。

 だからこそ、依頼する側には少しでも相手の経済状況、社会状況、そして何より相手の背負っている知への敬意を示すための財政処置を考案することをお願いしたい。トピカでは(立場上受け取ってくれない人もいるけれど)講師にも、地域の人にもできるだけ交通費だけでなく謝金をお支払いしているし、これからもそうするつもりだ。それが無理なら、せめて参加者のカンパを、投げ銭をお願いできる時間を作るとか、支援をお願いする情報発信を許可するとか、やりようはまだある。

 そして私たち一般社団法人トピカは、それに相応しい知と体験を返せるよう、塩江という地域で多くのものを積み上げていくことを約束する。また、社会を良くしていきたいと思っている人たちが集い、話し合い、挑戦し、支え合う場を作り上げることにより多くの時間と資源を割くことも約束する。

 社会をとりまく、理不尽と悲しみのアウトソースから生まれる分断を繕うため、そう宣言する。

この記事を書いた人